両山紋金峰山福田寺

四良次延命地蔵尊

四良次延命地蔵尊

自らの命と引き換えに柳津村を救った18歳の青年、四良次様をお祀りしている地蔵尊堂です。
享保の昔、柳津村で最も大切な村持の草刈り場である大判山を肝煎りの豪農が私物化しようとして村中大騒ぎになりました。 その時立ち上がった一人の青年、四良次。 当時お上への直訴は討ち首獄門の極刑だったため、享保14年(1729年)旧7月2日村内引き回しの後晒し首となりました。 しかしその直後、仙台奉行所から四良次が正しかったと無罪放免の知らせが届き、柳津村は救われたのです。
命をかけた正義の姿に心打たれた人々から後に「義民四良次様」と慕われ、崇め祀られるようになりました。 学問と仏道を学んでいたことから、学問成就や合格祈願、必勝祈願、物事が円滑に行きます様、などどんな願いでも成就する霊験あらたかな「四良次延命地蔵尊」としてその名を馳せています。

【地蔵尊になった由来】
四良次が処刑されるときに、頭上に光の中紫雲がたなびき慈悲円満の延命地蔵尊が現れ
「汝の命は未来永劫村の人の心に生きて滅することなく、仏果明らかにして正邪を審く日遠からざるべし」
とのありがたい御声が響いたことから伝えられています。

高屋観音

高屋観音

天正、文禄、慶長の昔(1591年~1614年)、仙台の藩主伊達正宗公の侍医で、柳津の巴主となられた名医高屋宗慶(法印喜庵)様を崇め祀る観音像です。
喜庵様は生まれてから3年間左手を握りしめて開かれなかったが、その手には小さな観音像を握っておられたという言い伝えがあります。
すぐれた医術を以て藩主正宗公に侍医に召されたある日の事と、糸脈をとらせられたとき「これは大変でござる。 お殿様の御脈が畜生の脈におなり申した。」と申し上げました。 それは喜庵様を試みるために、隣室で犬の脚に結び付けた糸でした。 見事言い当てられてしまい、居合わせた者皆その医術の非凡さに驚嘆し「名医高屋喜庵」の名声がとみに高まったのでした。
後に祀堂を建立し、観音像を安置され、領地柳津では女性たちが「観音講」を作り『安産と子育て、健康の神様』と祈願されるようになりました。
高屋観音様は盗まれかけたことがありますが、その際観音像から唸り声が聞こえ、盗もうとした者が怖くなり逃げ帰ったそうです。 それにより盗まずに済んだという言い伝えが残っております。
現在は四良次延命地蔵尊堂内に祀られています。

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